戦前まで小禄、豊見城、垣花や他の各地で織られたと言う絣入りの布が戦後の米軍基地依存の経済や他の現金収入で一時期衰退した中で那覇の東南に隣接した南風原では、農業、織物以外に産業に乏しく脈々と琉球かすりと南風原花織が織り継がれてきた、那覇を取り巻く他の町村が都市化の速度を早める中でも、琉球かすりの里はゆるやかな時の流れで村から町へと、その遅い歩調も幸いした、
分業体制を確立し、職人が腕を磨き量産出来るようになり一大産地になったのは恩人、儀間真常のおかげである、墓前を後に一行は数年に一度、儀間真常の直系の子孫である方を訪問し仏壇にお供えに行きます。
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